千代田区で代表的な建物といえば江戸城でしょう。
とういことでここでは江戸城についての歴史を紹介します。
武蔵の上杉定正が家臣の太田資清の子、資長に江戸城を築くことを命令、これが最初の江戸城の始まりだと言われます。
約一年間を費して築かれた江戸城、その場所はさらに二百年程前に住んでいた豪族江戸氏の居館の跡であったといわれています。当時は海岸線であったと言われています。
資長は上杉定正の手により暗殺されます、江戸城は上杉の直接支配となって城代(曽我氏)が置かれ、永正二年に上杉氏が江戸城に住むようになってから、江戸城は上杉氏の居城となります。その後小田原に本拠を持つ北条氏が、上杉氏を攻略、江戸城は北条氏のものとなり、約七十年余の間、江戸城は北条氏のものとなりました。
豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め亡ぼし、2ヶ月半も前に江戸城は既に豊臣の軍に降伏し、開城していたそうです。秀吉は小田原戦役の論功行賞として、徳川家康に北条の領地であった関東八ヶ国を与え江戸城を家康の居城とする事にしました。天正十八年八月、家康は関八州の大守として江戸城に入りましたが、家康が入城した当時の江戸城は、いまの旧本丸、二の丸、三の丸の区域で、濠も非常に狭かったと言われています。
家康は入城しすぐには大規模な修築はしませんでした。その翌々年即ち文禄元年になってはじめて西の丸の創建に着手、翌年これを完成させます。現在の皇居の宮殿地がそれにあたります、当時はこれを新丸と称えられたそうです。
家康は隠居して大御所と称し、秀忠が二代将軍となり江戸城を守ります。
3月1日を「起工の日」と定め、江戸城の大修築が本格的に始められました。全国の大名を動員し本丸、二の丸、三の丸の建設、天守閣や数多くの楼閣殿舎の建築、そして桜田門から半蔵門に至る内濠や、雉子橋から溜池にかけての外郭を完成させました。
現在の大手町、日比谷、桜田門外、皇居外苑等の一帯が大名街に指定され、町屋は取り払われ、そのあとに諸大名の豪華な屋敷が、桃山風の華美を競って立ち、「大名小路」を形成しました。
日本の史上空前の巨城として江戸城大修築は竣工。本丸と西の丸、その間に北の丸と吹上とを設け、汐留、虎の門、溜池、赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、飯田橋、お茶ノ水、両国を通ずる一線を外濠を以って囲み、城池は東西6キロ、南北4キロにわたってその外郭の要所に城門を造って出入りを監視し、所々に木橋を架け緊急に備えてありました。城門は外郭に20、内郭に11、城内に80。天守閣のほかに三重又は二重の城櫓が20もの数が存在したと言われます。
4月11日、朝廷、幕府双方の諒解が成立して江戸城は無血開城となります。明治天皇は朝廷の手に収められた江戸城に明治元年10月13日初めて京都から江戸城に入られました、後に「東京城」と改めます。本丸は火災で焼失したまま復旧しておらず、西の丸の殿舎を仮の宮殿、西の丸大手門(二重橋の門)を宮殿の正門と定められました。
昭和20年5月25日の東京大空襲により焼失、天皇は吹上御苑の御文庫にお住いになることになります。
昭和23年、宮城を皇居と呼ぶこととなった。
昭和35年、皇居の石垣、門などを江戸城史跡に指定されます。(1963年に特別史跡となります)
昭和36年、吹上御苑に昭和天皇皇后両陛下のお住いである「吹上御所」が完成しました。
平成5年、吹上御苑に天皇皇后両陛下のお住いである「御所」が完成した。